|
フランシス・バーナード(、初代準男爵、洗礼日1712年7月12日 - 1779年6月16日)は、18世紀イギリス植民地の管理者であり、ニュージャージー植民地とマサチューセッツ湾直轄植民地の総督を務めた。マサチューセッツにおける妥協しない政策と厳しい戦術が植民地人を怒らせ、植民地の中でイギリスの議会による支配に対して幅広い反対運動を築かせることとなり、アメリカ独立戦争に繋がる出来事が起こった。 1758年にニュージャージー植民地総督に指名され、フレンチ・インディアン戦争の後半で植民地の関与を監督し、植民地議会とは概して友好的な関係を築いた。1760年、マサチューセッツ湾直轄植民地の総督となり、議会と険悪な関係になった。初期の行動で、植民地内の人民主義者を対立させるようになり、イギリスの議会が植民地に課税しようとしたことに対する抗議へのバーナードの反応が、その亀裂を深くさせた。1768年、タウンゼンド諸法に対する抗議が起きた後、バーナードはイギリス軍がボストンに駐屯して、植民地人を抑えることを求めた。バーナードが植民地について批判的になっている文書が出版された後に、本国に呼び戻された。 バーナードはイングランドに戻った後、植民地の事情についてイギリス政府への助言を続け、1773年のボストン茶会事件で頂点に達したマサチューセッツで続く問題に対して、強硬な対応を要求した。1771年に卒中を患い、1779年に大家族を残して死んだ。 == 初期の経歴 == フランシス・バーナードは、イングランドの当時バークシャーにあり1974年からオックスフォードシャーに属しているブライトウェル・カム・ソトウェルで生まれた。父は同名のフランシス・バーナード牧師、母はマージェリー(旧姓ウィンスロウ)であり、1712年7月12日に洗礼された〔Higgins, p. 1:173〕。父はその3年後に死んだ。母が再婚したが、母も1718年に天然痘で死んだ〔Higgins, pp. 1:174–176〕。その後のバーナードは数年間叔母に育てられた可能性がある。継父は女性関係に失敗してオランダに逃げるしかなくなっていた〔Higgins, pp. 1:177–178〕。その継父のアンソニー・アルソップは数年後にバークシャーに戻り、バーナードの養育者の役割を続けた〔Higgins, pp. 1:178–179〕。バーナードの正式な教育は1725年にウェストミンスター・スクールで始まり、その後オックスフォードで数年間を過ごし、1736年にクライスト・チャーチから文学修士号を得た。ミドル・テンプルで法律を学び、僅か4年後(通常ならば7年)の1736年には法廷弁護士として認められた〔Nicolson (2000), p. 25〕。リンカン市に移って法律実務を開始し、同市の様々な役職を務めた。リンカンでの隣人の中にはパウナル家がおり、植民地管理部に務めた息子のジョンや、1753年に北アメリカに渡り、1757年にはマサチューセッツ湾植民地の総督に指名されたトマスが居た〔Nicolson (2000), pp. 29–41〕。 バーナードは1741年12月、ダービーシャーの保安官の娘アメリア・オフリーと結婚し、大勢の子供に恵まれた。1757年までに8人の子供ができ、存命だった〔Higgins, pp. 1:193–219〕〔Nicolson (2000), p. 34〕。この大家族を養うために大きな収入を得る見込みはロンドンでは希薄だったので、植民地での役職を求めることに決めた〔Higgins, pp. 1:215–217〕。ジョン・アダムズは後にバーナードについて、「大変不名誉なほど強欲であり、同時に養う大家族が居るので困窮していた」と表現していた〔Adams, p. 33〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランシス・バーナード (総督)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|